LOGIN帝都の門をくぐった瞬間、空気の違いに気づいた。
見慣れた街並みのはずなのに、どこか張り詰めたものがあった。
行き交う人々の視線が馬車に向けられるたび、一瞬だけ何かを探るような色を帯びる。 以前は単純な好奇と歓迎の視線だった。 今はそこに、別の何かが混じっていた。大通りの露店はいつもと変わらず賑わっていた。
パンの焼ける匂いと香辛料の匂いが入り混じり、行商人の威勢の良い呼び声が響く。 表面上は何も変わっていないように見えた。 けれど馬車がゆっくりと通り過ぎるたび、店先の話し声がふっと途切れる瞬間があった。 そのわずかな沈黙の作り方が、以前にはなかったものだった。 宮への道のりが、いつもより長く感じられた。「――お帰りなさいませ」
宮に着くと、ガイル様がいつになく硬い表情で出迎えた。
「留守の間、変わりはなかったか」
アルヴィス様が尋ねると、ガイル様は一枚の紙を差し出した。
指先がその紙を持ミナの訪問から五日が過ぎた。あの謁見の様子は瞬く間に宮中を駆け巡っていた。 聖女候補が直々に祝辞を述べに来た、という表向きの話に、尾ひれがつく形で。 曰く、聖教会は本気で婚約を認めていない。 曰く、あの聖女の様子は尋常ではなかった。囁きは廊下の隅々にまで染み込んでいくようだった。 廊下ですれ違う侍女たちの視線にも、以前とは違う色が混じっているのを、私は感じ取っていた。*朝議の間は、宮の東翼三階にある。 円形に近い部屋の中央に、分厚い樫の円卓が据えられ、その周りに十二人分の椅子が並んでいた。 高い窓から差し込む朝の光が、円卓の木目をくっきりと浮かび上がらせている。 壁には、歴代皇帝の肖像と、帝国の紋章を織り込んだ垂れ幕が、左右対称に掛けられていた。その日、円卓の席はほぼ埋まっていた。 財務、軍務、外交、それぞれを預かる大臣たちが、いつになく硬い表情で座っている。「殿下。婚約発表の日取りについて、あらためてご相談がございます」口を開いたのは、外交を預かる年配の大臣だった。灰色の口髭を蓄えた実直な人物だった。 これまでも帝国の内政を堅実に支えてきた人だと聞いている。 円卓を囲む他の閣僚たちも、彼の言葉に、静かに耳を傾けていた。 壁際に控える書記官の羽根ペンが、羊皮紙を擦る音だけが、時折小さく響いていた。「聖女候補の訪問以来、貴族の間で動揺が広がっております」大臣は机の上で指を組んだ。「教会がこれほど早く、直接的な動きを見せてくるとは誰も予想しておりませんでした。今、発表を強行すれば、教会をいたずらに刺激し、事態を悪化させかねません」「では、どうすべきだと」アルヴィス様が静かに問うた。 円卓の上座、私のすぐ隣に座る彼の横顔は、朝の光を受けて、いつもより白く見えた。「今しばらく様子を見るべきかと。教会の出方を見極めてからでも遅くはございません」大臣の言葉には、この帝国を思う確かな誠実さがあった
婚約発表を前倒しにする旨を正式に各国へ通達してから、三日が過ぎた。多くの国から祝辞が届いた。 だが聖教会からの返答だけは、まだ届いていなかった。 その沈黙が、かえって次の一手を予感させた。 窓の外では、朝の光が、いつもより白く、庭の敷石を照らしていた。 宮の廊下を行き交う侍女たちの足取りにも、心なしか、いつもより慎重さが滲んでいるように見えた。 誰もが、何かを待っている。 そんな空気が、宮全体を薄く覆っていた。「殿下。アーデルハイド王国より使者が」ガイル様が緊張した面持ちで報告に来た。 手にした書状には、見覚えのある聖教会の封蝋が押されていた。「聖教会の名代として、聖女候補ミナ・レンフィールド様がこちらへ」私は息を止めた。「ミナさんが直接」「はい。婚約発表への正式な祝辞を携えて、と」祝辞。 その言葉の裏に何が隠されているのか、想像もつかなかった。 指先が自然と冷たくなっていく。 ここ数日、ずっと張り詰めていた緊張が、また一段、強さを増した気がした。「アルヴィス様」「会おう」彼の声は静かだったが、迷いはなかった。 窓の外の光を背に、彼の表情は、いつもより引き締まって見えた。*謁見の間は、朝の光をいっぱいに取り込んで、白く輝いていた。高い天井には、代々の皇族を描いた天井画があり、左右の壁には、帝国の栄光を刻んだ彫刻が並んでいる。 普段なら、その荘厳さに気圧されることもない空間だったが、今日ばかりは、その広さが、かえって息苦しく感じられた。私はアルヴィス様の隣、玉座に近い一段高い場所に立った。 両脇にはシェラと数名の護衛騎士が控えている。 広間の奥、両開きの扉の前には、正装した衛兵が二列に並び、その先の廊下から、微かに、衣擦れの音が近づいてくるのが聞こえた。*扉が開かれ、ミナが現れた。私は思わず目を見張った。あの告発の日に見た彼女
ドルフの鍛冶場を訪れてから、数日が過ぎた。日常は表面上、いつも通りに流れていた。 婚約発表の準備、妃教育、そして静かに積み重なる不穏な報告。 その両方が同じ日々の中に、当たり前のように同居していた。 窓の外の庭では、季節の変わり目を告げるように、木々の緑が少しずつ色を深めていた。「殿下。東方より、また報告が」朝議の場でガイル様が地図を広げた。帝国の東に連なる交易路が、赤い印でいくつも塗られている。 羊皮紙の擦れる音が、静まり返った部屋に、やけに大きく響いた。「この一月で、遅延が確認された隊商は十七に上ります」私はその数字に息を呑んだ。 十七という数は、単なる統計ではない。 それぞれの荷馬車に、荷主の生活と、その先で待つ人々の暮らしが乗っている。「以前より明らかに増えている」アルヴィス様が地図に目を落としたまま低く言った。「原因は」「税関での検分強化と、各国は説明しております。ですが」ガイル様は地図の一点を指で示した。 指先が赤い印の上を、なぞるように動いた。「検分の厳格化が始まった時期が、いずれの国もほぼ同じでございます」「同じというのは」「先月の半ば。ちょうど婚約発表の噂が市井にまで広まり始めた頃と符合いたします」朝議の間に重い沈黙が落ちた。窓から差し込む朝の光が、広げられた地図の上を静かに這っていた。 誰も口を開かないまま、その光だけが、ゆっくりと位置を変えていく。「対象となっている国々に、共通点は」アルヴィス様が問うた。「はい。いずれも聖教会の影響が強い国々でございます」その答えに私は拳を握った。指先にじわりと汗が滲むのが分かった。 地図の赤い印の一つひとつが、まるでこちらを見透かす目のように思えてくる。 この帝国を取り囲むように広がる、無数の視線。 その中心に、まだ姿を見せない誰かがいる。
ゼルに案内されたのは、帝都の外れにある小さな鍛冶場だった。炉の炎が絶えず唸り、鉄を打つ音が規則正しく響いていた。 軒先には農具や馬具が並び、いかにも堅実な仕事ぶりを物語っていた。 壁に立てかけられた鋤や鍬には、丁寧な手入れの跡が見えた。 一つひとつの道具に、作り手の誠実さが滲んでいるようだった。*「――ここでございます」ゼルが鍛冶場の入り口で足を止めた。いつもの軍師の顔ではなかった。 今日の彼はどこか緊張した、五歳児そのものの表情をしていた。「あの、少し緊張いたします」「あなたでも緊張するのね」「当然でございます。恩人にこれからご迷惑をおかけするのですから」鍛冶場の奥から白髪の男が姿を現した。長い髪を後ろで一つに束ねている。 細身だが槌を持つ腕には確かな力の芯があった。 目には常に何かを考え込んでいるような、深い陰りがあった。 額に浮いた汗が、炉の熱を物語っていた。 焼けた鉄と、炭の匂いが、彼の周りに纏わりついている。彼は私たちを見て動きを止めた。 槌を握る手の位置が、ほんのわずかに変わった。 攻撃に転じるためではなく、むしろ、逃げ場を探すような、そんな動きだった。「――ゼル坊、今日は何の用だ」声は平静を装っていたが、微かに強張っていた。「ドルフ様」シェラが前に進み出た。「お久しゅうございます。灰塵のシェラハドでございます」その一言でドルフの表情から完全に色が消えた。 炉の炎だけが、変わらず唸り続けていた。 その音と、彼の凍りついた沈黙との対比が、やけに際立って感じられた。「――何のことか分からんな」「惚けずとも結構です」シェラの声には抑えきれない昂りがあった。「あなた様が武力のドルガン様であることは承知しております。魔王様も、こちらに」彼女は私を示した。
翌日の午後、ゼルが宮を訪れた。出迎えた私はすぐに違和感を覚えた。 いつもなら彼は育ての親に手を引かれて現れる。 今日は違った。 門番に伴われて一人でまっすぐに歩いてきた。 小さな背中には迷いがなかった。 石畳を踏むその足取りさえ、いつもより重みを帯びているように見えた。「本日は母についてきてもらったわけではございません」応接の間に通すと、ゼルは開口一番そう言った。普段の子供らしい仕草はどこにもなかった。 最初から、あの軍師の顔だった。「一人で参りました」「一人で。ここまで」「馬車を乗り継いで参りました。心配は御無用に」私は軽く吹き出してしまった。五歳の子どもが一人で馬車を乗り継ぐという事態の異常さ。道中の大人たちの目には、どのように映っていたのだろうか。同時に、そこまでして伝えねばならない何かがあるのだと、直感が告げていた。「シェラから伺いました。火急の御用向きがあると」私が切り出すとゼルは姿勢を正した。「はい。魔王様に申し上げねばならぬことがございます」「聞かせてください」彼はしばらく沈黙した。 窓から差し込む午後の光が、彼の小さな顔に大人びた陰影を作っていた。 埃の粒が、その光の筋の中を、ゆっくりと漂っていた。「――もう一人、心当たりがございます」「もう一人」「四天王の生き残りが、今この帝都の近くにおります」私は息を呑んだ。シェラの調査でも、ずっと手がかりが掴めずにいた三人のうちの一人。 その言葉の重さが、じわりと胸に広がっていった。「本当なのですか」「間違いございません。長らく確かめておりましたので」「長らく、とは」「魔王様と出会う以前からでございます」その一言に、私は言葉を失った。「わたくしは五年前に生まれ落ちました。物心つく頃には、すでに
帝都の門をくぐった瞬間、空気の違いに気づいた。見慣れた街並みのはずなのに、どこか張り詰めたものがあった。 行き交う人々の視線が馬車に向けられるたび、一瞬だけ何かを探るような色を帯びる。 以前は単純な好奇と歓迎の視線だった。 今はそこに、別の何かが混じっていた。大通りの露店はいつもと変わらず賑わっていた。 パンの焼ける匂いと香辛料の匂いが入り混じり、行商人の威勢の良い呼び声が響く。 表面上は何も変わっていないように見えた。 けれど馬車がゆっくりと通り過ぎるたび、店先の話し声がふっと途切れる瞬間があった。 そのわずかな沈黙の作り方が、以前にはなかったものだった。 宮への道のりが、いつもより長く感じられた。「――お帰りなさいませ」宮に着くと、ガイル様がいつになく硬い表情で出迎えた。「留守の間、変わりはなかったか」アルヴィス様が尋ねると、ガイル様は一枚の紙を差し出した。 指先がその紙を持つ手つきに、微かなためらいを滲ませていた。 長年、報告役として鍛えられてきた彼の手が、今は少し震えているようにも見えた。それは粗末な紙に刷られた、街角の読み売りだった。インクは滲み、紙質も粗い。 急ごしらえで刷られたものだと一目で分かった。 それでも見出しの文字だけは、やけにくっきりと目に飛び込んできた。『皇太子妃候補、災厄の令嬢か』私は息を呑んだ。「これは」「三日前から下町を中心に出回っております」ガイル様は苦い顔で続けた。「発行元ははっきりいたしません。ですが内容があまりに具体的で」私は紙面に目を走らせた。 文字を追うごとに、指先が冷たくなっていくのが分かった。決闘の夜の出来事。 地面が抉れたという噂。 婚約に至った異例の代償の額。 それらが断片的に、けれど悪意を持って並べられていた。 誰かが意図的に選び、意図的に並べた